ガブリエッラ・ラ・トッレ個人アーカイブの売却
メゾン・エルメスのスカーフ意匠家
1958年から1968年にかけて



ローマでの偶然の出会い
すべては1957年、ローマで、二人の友人がコーヒーを共にしたことから始まりました。
そのうちの一人、ドンナ・マリア・ガブリエッラ・ラ・トッレ・デ・スタンパは、すでに65歳近くになっており、人生の多くを一つの特別な芸術に捧げてきました。磁器への絵付けです。
1976年に世を去る数か月前、この稀有な仕事の記録を正確に残そうとする身内に促され、彼女は50年のあいだに18,000点を超える作品を手がけたと見積もっています。それはついに職業ではなく、ごく稀な場合を除いて商いでもありませんでした。家族や友人、結婚する人、子の誕生を祝う人に喜んでもらうための営みだったのです。



芸術が遠ざけられることのないローマの家に生まれたガブリエッラは、当時の主要な規範の一つとされたクレモナ師にミラノで学んだのち、1920年にこの道を歩み始めました。
嫁いで間もない頃、義理の両親から、ベルガモ近郊マペッロにある ヴィッラ・デル・グロモ の75の部屋を改装し、しつらえ直す役目を託されます。家族が夏を挟んで長く過ごした館です。彼女はこの務めに深く心を寄せ、イタリア国内はもとより、フランス、イギリス、ドイツ、スイスなど幾度もの旅先で古美術商を訪ね歩くようになりました。
ほどなくして彼女は、ファイアンス陶器と磁器の個人コレクションを築き上げます。とりわけ、すでに失われた窯の作品を集めました。この分野における彼女の見識は、際立ったものとなっていきます。
やがてガブリエッラは、家族の必要のため、また家族のために磁器の食器一式を作り始めます。なかでも知られるのが「セルヴィス・グロモ」で、東インド会社の器に着想を得たものです。当初は18人分として作られましたが、それでは足りないとされ、36人分に拡げられました。現在は子孫のあいだで分け合われています。
ガブリエッラ・ラ・トッレが範としたもののなかには、スイスの旧ニヨン窯の作品があり、とりわけ「Les Insectes」(昆虫たち) は、彼女がコーヒーセットやデザート皿へと展開した主題でした。
1957年のローマで、二人の友人がコーヒーを口にしたのは、まさにこの「Insectes」のコーヒーセットだったのです。一人が誰であるかは、もうお分かりでしょう。
ジャン・R・ゲランと昆虫たちの出会い
もう一人は、メゾン・エルメスの三人の重役の一人、ジャン・R・ゲランでした。仕事でイタリアの首都を訪れるたびそうしていたように、彼は友人ガブリエッラに会いに来たのです。
そして彼は、この小さな昆虫たちの繊細さ、美しさ、そして普遍性に気づきます。精確で、詩情にあふれ、けっして脅かすところがない。これをもとにエルメスのスカーフを作ってはどうかと最初に思いついたのは、おそらく彼だったのでしょう。
その年齢にあって、ガブリエッラが新たな道を歩み出すことなど考えてもいなかったはずです。それでも、この思いつきは彼女の心を惹きました。一つの挑戦として。彼女は引き受けます。
一年後の1958年、「Les Insectes」はエルメスの春夏コレクションに名を連ねました。



エルメスの新たな方向
「Insectes」の成功を受け、ジャン・ゲランは再びローマの友に声をかけます。ほかの意匠が続きました。磁器の世界に着想を得たもの (Fleurs et Galons)、自然に着想を得たもの (Oranges et Citrons、Les Cerises、Les Jeunes Coqs、Les Oiseaux de Paradis ほか) です。
いずれもメゾン・エルメスに、女性らしさと普遍性の色合いをもたらしました。それは、馬、馬術、馬具、さらには純然たる軍事的主題という出自の世界に強く彩られた製品群に、なお欠けていたものでした。
女性客が「革と刃」の趣を抑えた意匠を身につけたいと望んでいることを、ジャン・ゲランは明確に捉えていたようです。
「Insectes」はミレーユ・ダルク、カトリーヌ・ドヌーヴ、ベルナデット・シラクが身にまといました。時代を超えた一枚として、いまも折に触れて復刻されています。



アーカイブを守る
2000年代初頭、ガブリエッラの息子ファブリツィオは、母の作品や素描、下絵、原型、写真資料が散逸していること、そして何より、メゾン・エルメスが世に出した品々がひとまとまりに残されていないことに気づきます。

甥のフランソワ・ベールの助けを得て、彼はフランス、ヨーロッパ、アメリカの競売でしばしば品を買い求めました。スカーフ、スポーツウェア、灰皿などです。こうして彼は、素描や下絵と、1958年以降に世に出た品々とを結び合わせることができました。
今日、ファブリツィオ・ラ・トッレの写真作品の管理者であり遺言執行者でもあるフランソワ・ベールは、ガブリエッラの子孫にあたる曾孫たちに、これら記憶の遺構を守るための時間も場所もないことを、惜しみつつ認めています。
そこで、これらのアーカイブと、それにまつわるエルメスの品々を、主要な収集家や文化機関に向けた競売に委ねるときが来たのです。


「Vieille Chine」をめぐる物語




来たる競売における図像上の難しさの一つは、エルメスが世に出した品と、作家が制作の過程で用いた下絵の紙、すなわち台紙とを、正しく結びつけることでしょう。
特筆すべき一例
エルメスが「Vieille Chine」(古い中国) と名づけた意匠です。
フォーブール・サントノレの由緒あるメゾンの目録に、これほどの題名の誤りが記されることは、まずありませんでした。
この経緯は語るに値します。1956年から1961年にかけて、ガブリエッラの息子ファブリツィオ・ラ・トッレはバンコクに暮らし、イタリアとタイの若い合弁会社イタルタイの管理部長の職にありました。
その頃もファブリツィオは、終戦以来続けてきた写真の仕事に全身で打ち込んでいました。ローマとイタリアで、また北米 (ニューヨーク、カリフォルニア、カナダ) や南米への旅の途上で、芸術的にきわめて価値の高い写真を残しています。アジア、とりわけタイを撮った作品は、2018年から19年にかけてバンコクで大規模な回顧展が開かれ、写真集 (Bangkok That Was、Serindia Editions) として刊行されました。

ローマの街角で子どもたちのもっとも自然な一瞬を、あるいは道行く人の目を引こうと歩道にまで誇らしげに品を並べる小商人たちの、どこの国にも通じる人懐こさを捉えてきたファブリツィオは、タイの人々の日常を写す証言者であることだけに満足してはいませんでした。
家風でもあったのでしょう、彼はその地で出会えるあらゆる芸術にも心を寄せました。国王によって国立博物館長に任じられたトスカーナ出身のコッラード・フェローチと親交を結び、彼の許しを得て、無名の絵師たちが細やかな金泥で仏陀の生涯の伝統的な場面を描いた古い漆塗りの家具を撮影します。
しかし二人のイタリア人は、まもなく大きな芸術的発見をします。これらの古い家具では、宗教的な主題さえ厳格な正統に沿って扱われていれば、絵師たちは残る空間を好きなもので「埋める」ことを許されていたのです。シャムの人々の日々の暮らしの情景や、この上なく繊細な花の構図が描かれていました。

ファブリツィオはほどなく、目を見張るような一枚の板絵を見出し、その場である考えを抱きます。彼はそれを「撮り」、ローマに戻ってから引き伸ばして板に貼り、母に贈りました。何の言葉も添えずに。数週間ののち、ガブリエッラもまた確信します。わずかに手を入れさえすれば、この意匠はエルメスのために類まれなスカーフになる、と。
彼女は取りかかり、企画はごく短いあいだにジャン・ゲランのもとへ届けられます。エルメスはこれを世に出すことを承諾しました。ただ一つ、当時はさほど気に留められなかった細部を伴って。その題名です。

メゾン・エルメスは当時、これを「Vieille Chine」と名づけるのが適切だと考えました。その頃、それを気に留める者はいませんでした。しかし時代は移ります。ついに植民地とならなかった国であることを誇りとするタイは、自然が授けた壮麗さを否むことなく、自国の歴史と文化と芸術を探り、称える手立てを次第に整えてきました。
この意匠が採られた家具は入念な修復を経て、いまではバンコク国立博物館の、豊かに改修された展示館に堂々と据えられています。この意匠に中国の出自を与えることなど、もはや論外です。それゆえメゾン・エルメスは、文化の盗用という誹りを受けぬよう、これを再び世に出さないことを決め、ガブリエッラとファブリツィオ・ラ・トッレの権利承継者たちが、タイで新たな復刻の道を見いだせるよう委ねたのです。


遺産を受け継ぐために
作家ガブリエッラ・ラ・トッレのアーカイブと、メゾン・エルメスが世に出したこれらの品々を競売にかけるという選択によって、ガブリエッラの権利承継者たちは、この仕事が大きな収集や、フランス、イタリア、あるいは国際的な文化機関のもとで守られ、末永く残り、人々の目に触れ続けることを願っています。
数多の作家たちと同じように、ガブリエッラもまた自らの才と創造力をメゾン・エルメスにもたらしました。それは友情の名においてであり、同時に、芸術と卓越を絶えざる営みとして掲げるこのメゾンと共に働くという思いが呼び起こす、あの高揚の名においてでもありました。
ガブリエッラ・ラ・トッレ。それはエルメスという広大な物語のなかの、小さな一挿話にすぎません。けれどもエルメスにあってしばしばそうであるように、それは美しく、人間味にあふれ、才に満ちた物語なのです。
原文はフランソワ・ベールによるフランス語記事 (Brussels Art Edition) です。 メール: franbayle@brussels-art-edition.eu